上総金田氏の歴史(歴代記)
 

   

 
 
第六章  上総武田氏と上総金田氏 その4
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第一章 第二章 第三章 第四章 第七章 第八章

 
  金田常信の代に金田姓に復した歴史的背景を知るために、第五章で享徳の乱がどのように千葉宗家や上総国に影響を及ぼしたかについて検証してきた。
しかし、金田姓に復するのに直接影響を及ぼした上総武田氏について検証することで、千葉大系図や金田系図にも記されなかった隠された事実を解明しなければ、今日上総金田氏の子孫たちが金田姓を名乗ることになった真実を知ることはできないのである。
上総武田氏は上総金田氏と親密な庁南武田氏と後に敵対関係になる真里谷武田氏に分かれて上総国を統治した。
第六章では上総武田氏を詳しく扱うことで上総金田氏との関連性を検証することにする。

蕪木常正 金田常信(蕪木常信から改姓) 金田信定 金田宗信  ― 金田信吉   金田正信
       
   └  金田正興
                    (三河金田氏祖)  
 
 (10)上総武田氏の系図について検証

一般的に上総武田氏の系図と認識されているのは下記の上総武田氏系図其三に記載されている内容である。
武田信長が上総入部後庁南城・真里谷城を築城。寛正4年(1463年)嫡子武田信高を庁南城主とし家督を譲り、隠居するため孫の信興とともに真里谷城に移ったと言われている。(参考Wikipdia)
その後武田信高の子である道信・信興がそれぞれ庁南城主・真里谷城主となり、庁南武田氏・真里谷武田氏に分かれることになる。
上総武田氏系図其三は真里谷武田氏の菩提寺真如寺に伝わる上総武田氏の系図で庁南武田氏・真里谷武田氏がともに記載されている。
庁南武田氏の菩提寺大林寺では江戸時代の火事で系図等の資料が失われてしまったことからも、庁南武田氏に関する貴重な資料と言える。


①上総武田氏系図其三 庁南武田氏・真里谷武田氏の系図



◎庁南武田氏歴代の年齢を検証

庁南武田氏の菩提寺である大林寺にある歴代のお墓に記載の没年を検証すると上記系図に疑問を持たざるを得ない。
参考 武田家の史跡探訪庁南武田氏の墓

大林寺は江戸時代の火事で庁南武田氏の貴重な資料を失ってしまったが、それでも享年については信憑性は高いと思われる。
真里谷武田氏の菩提寺真如寺に伝わる上総武田氏系図其三に書かれていると宗信・吉信の没年が一致いるからである。
上総武田氏系図其三では宗信以降の没年が書かれているが、信高や道信の没年が書かれていないのは意図的なものと感じる。
大林寺と真如寺の貴重な資料によって庁南武田氏と真里谷武田氏との間に隠された事実があると思うに至ったのであった。

 享年  没した年  享年等から生まれた年を推計  
 武田信長  78歳  文明9年(1477年)  応永7年(1400年)  
 武田信高  51歳  文明12年(1480年) 永享2年 (1430年)  
 武田道信  46歳  文明13年(1481年)  永享8年(1436年)  
 武田宗信  93歳  天文20年(1551年)  長禄3年(1459年)  真里谷武田氏菩提寺真如寺に伝わる系図と没年が一致
 武田吉信  94歳  永禄11年(1568年) 文明7年 (1475年)  真里谷武田氏菩提寺真如寺に伝わる系図と没年が一致
 武田清信   天文2年 (1533年)    真里谷武田氏菩提寺真如寺に伝わる系図による没年
 武田豊信   天正18年 (1590年)    真里谷武田氏菩提寺真如寺に伝わる系図による没年
         
武田信興  真里谷武田氏祖  永正8年 (1511年)  永享5年(1433年)  生まれた年はWikipdia参照
 

武田信高は道信・信興の父というのが通説だが、年齢を換算すると道信・信興の兄だったと断定できる。
何らかの事情で武田信高を父とし、武田道信を庁南武田氏の祖・武田信興を真里谷武田氏の祖としなければならなかった。
武田道信は信高から継承後1年で没し嫡子武田宗信が23歳で庁南武田氏の家督を継承したことから、庁南武田氏における武田道信の存在感は薄く感じられる。庁南武田氏の祖というよりは、武田信高から武田宗信への中継ぎのイメージである。
武田信高が永く庁南城主だったことを考えると、庁南武田氏が本流で真里谷武田氏が分離したというのが事実ではないだろうか。
真里谷武田氏では庁南武田氏と対等となるためにあらゆる努力をした痕跡が残っている。真里谷武田氏のことは後述したい。



◎武田信高を庁南武田氏の初代とし弟武田道信を二代とする系図を作成

庁南武田氏について武田信高を初代として作成した系図が下記の通りである。

特筆するのが武田宗信・武田吉信が長寿であったことと、親族が少ないことである。
宗信は途中で隠居し、家督を子の吉信、更に孫の清信に継承させた。
Wikipediaの足利義明に書かれている永正15年(1518年)の小弓入部の頃には、真里谷武田氏が小弓公方の両総管領として絶頂期を迎える。
この頃には庁南武田氏は劣勢になり、千葉介との関係を重視してきた武田宗信は実権を失い隠遁生活となったと思われる。
永正15年(1518年)以降は小弓公方足利義明に従い、武田吉信・清信親子に庁南武田氏は任せられたのである。
その後武田清信は早死したので、しばらくは父吉信が実権を握っていたのだろう。清信の享年は不明だが、父吉信の年齢から推定すると、30代だった可能性が高い。

永正15年(1518年)までは庁南武田氏の当主は上総介を称していたが、武田清信が信濃守としか称していないので、当主が上総介という習わしは消滅したらしい。
その後武田吉信が養子の武田豊信を迎えるまで庁南武田氏の実権を握っていた。

真里谷武田氏の菩提寺である真如寺に伝わる上総武田氏其三に「実は武田晴信の三男」と武田豊信について書かれているが疑問を持たざるを得ない。
武田清信が没した年に武田晴信が14歳だったことを考えると、武田晴信が天文10年(1541年)父信虎を追放して、三男信之が誕生する天文12年(1543年)までの10年間、上総武田氏が武田晴信に養子の話を出来る状態でなかったのではないか。更に信之が天文22年(1553年)に11歳で夭折したとされているという定説も信じていいのではないだろうか。

武田清信が没したときの甲斐武田氏の当主は武田信虎。
上総武田氏からの養子の依頼に武田信虎が応じることを約束をしたのではないだろうか。
親子関係が悪かった嫡子武田晴信を上総国に養子の依頼を口実に追放することも考えていたかもしれない。
しかし武田晴信が天文10年(1541年)父信虎を駿河に追放することで状況が変わってしまった。
駿河で生まれた信虎の庶子を上総武田氏に養子として送ることを武田信虎が提案し、甲斐の武田晴信の暗黙の承認を得て、上総武田氏の当主武田豊信が実現したと考えられる。
追放された信虎の庶子ではイメージが悪いので、武田信虎の庶子(武田晴信の弟)を武田晴信の三男と称した可能性が大なのである。
天正18年 (1590年)豊臣秀吉が小田原北条氏を攻めた小田原の役で、武田豊信は自害し庁南武田氏は滅びた。


②庁南武田氏の系図(武田信高を庁南武田氏の初代とし弟武田道信を二代とする系図)


武田信高を庁南武田氏初代として道信を信高の弟として作成した庁南武田氏系図

 (11)真里谷武田氏の菩提寺である真如寺に伝わる上総武田氏系図

真如寺に伝わる上総武田氏系図では、其二では真里谷武田氏の系図のみを、其三では庁南武田氏と真里谷武田氏を併せた系図となっている。同じ上総武田氏の系図だが、微妙に内容が異なっている。
上記①上総武田氏系図其三と③上総武田氏其二を比較して決定的な違いは、武田信高を武田信定と書かれていることである。
更に官位についても①と③では異なっている。

◎上総武田氏系図其三    武田信高 上総介


◎上総武田氏系図其二    武田信定 真里谷城に住み、地名により真里谷信定と称す 和泉守・三河守
                   父信長の死後、久留里城・庁南城を継ぐ

上総武田氏系図其二に書かれている武田信定のことを考えると、真里谷武田氏こそ本流で庁南武田氏のことを無視するためにできた系図となっている。
「信定が地名の真里谷を称した」と記入することで、武田信興が真里谷武田氏の祖となったのは、「父信定の代から真里谷氏と称してきた」という意図が感じられる。
更に真里谷城こそ上総武田氏の居城であることを強調している印象である。

真如寺に伝わる上総武田氏の系図では特筆することが下記の通りである。
   ①上総武田氏系図其三  ③上総武田氏系図其二
 武田信長  三河守
生実御所執権 両総管領
 武田三河守
文明4年足利義明両総に攻勢をかけ、武田信長が義明を補佐し生実御所を建て執権に就任する。
 武田信高  上総介
生実御所執権 両総管領
 和泉守・三河守
幼名伊豆千代丸→武定→信定
生実御所執権 両総管領
 武田信興  三河守
真里谷殿元祖 真如寺開基
 三河守・遠江守
生実御所執権 両総管領 真如寺開基
 武田信勝  式部大夫  和泉守
生実御所執権
     ※武田信長・信勝を上総守護と③上総武田氏系図其二に記されているが、守護職は幕府によって補任されるもので、生実御所執権と書いていることからも、幕府から直接守護職に補任されることはなかったので省略した

※文明4年に足利義明が12歳だったとすると、国府台合戦が起きた天文7年(1538年)には78歳になってしまう。武勇を過信し北条軍に突撃して戦死したと伝わっている足利義明のことを考えると、上総武田氏系図に書かれている記述は事実ではないと判断できる。
後に小弓公方となった足利義明のことを担ぎ出しても系図を飾らなければならない事情が真里谷武田氏にはあったことのではないだろうか。

③上総武田氏系図其二 真里谷武田氏単独の系図


真里谷武田氏については信定以降真里谷氏と称したと書かれているが、系図を見やすくするために武田姓のままとした。

  (12)上総武田氏の分裂

武田信長が文明9年(1477年)、武田信高が文明12年(1480年)に相次いで没すると、上総武田氏にお家騒動が勃発する。このことが庁南武田氏と真里谷武田氏に分裂することにつながるのである。

  • 武田信長が隠居し真里谷城に移り、嫡子武田信高が庁南城を居城としたことにより、二頭体制となったことで家臣たちが真里谷派と庁南派に分かれて対立する構造が出来てしまった。例として徳川家康が駿府に隠居し、江戸の将軍秀忠との二頭体制があげられる。家康が没すると側近だった本多正純が宇都宮城釣り天井事件で没落し、秀忠の側近土井利勝が頭角を現すことになる。
  • 上総国の正当な支配者であることを国人たちに誇示してきた上総介信高の後継者に真里谷城にいた武田信興はならなかったのである。上総介信高の意向なのか真里谷城の人たちの反対で本人が辞退したのか理由はわからない。
  • 上総介の地位と庁南城主は、武田信興の弟武田道信が継承することになる。
  • 武田信興が上総介を軽視し真里谷城を居城としたのも、武田氏が甲斐源氏出身で上総国に多くの支城を有している自信の表れだった。しかし、古河公方配下の諸侯の序列では、千葉介に次いで上総介が位置しており、武田三河守は上総介より下位に位置してしまうのである。
  • 関東の諸侯で千葉介が歴代首座を占めてきたことは、後の戦国時代に上杉謙信(当時は政虎)が鶴岡八幡宮で関東管領の就任式を行った際に千葉介胤富が小山高朝と首座争いを行い、上杉謙信が千葉介胤富の主張を認めたことで有名である。関東の諸侯首座の千葉介に重視された上総介の立場は決して侮れないものだった。
  • このようなことが真里谷武田氏にとってどれほどコンプレックスだったかが上総武田氏系図を見るとよくわかる。武田信長や武田信高(信定)に生実御所執権とか両総管領という肩書きをつけているのは、千葉介・上総介に対抗するためである。執権は鎌倉幕府の役職、管領は室町幕府の役職、生実御所は小弓公方足利義明の邸宅のあった場所のことであるが、信長・信高の時代に生実御所が存在していなかったことは明言できる。当時存在していなかった役職などで系図を飾らなければ千葉介・上総介に対応できなかったのである。
  • そして真里谷武田氏を庁南城を居城とする上総介道信を同等にするため、兄上総介信高を道信・信興の父とすることで歴史的事実を改ざんしてしまった。
  • これにより、武田道信が庁南武田氏初代となり、武田信興が真里谷武田氏初代初代となった。この結果が上総武田氏系図其三である。武田道信は兄武田信興の意向に従ったが家督相続後1年で没した。その子武田宗信が上総介を継承すると、真里谷武田氏との関係が疎遠になり千葉宗家との関係を重視するようになる。

 (13)真里谷武田氏の執念


兄上総介信高を道信・信興の父とすることで歴史的事実を改ざんしてしまった真里谷武田氏祖武田信興であったが、その執念は凄まじいものあった。
  • 兄上総介信高を父としたが、上総武田氏系図其二では信高を信定に改め「武田和泉守として真里谷城に住む。地名の真里谷から真里谷氏を称す。」と記したのだ。庁南城主上総介信高の存在を系図其二で完全否定し、父にしてしまった信定の代から真里谷城に住み真里谷信定と称し真里谷氏の正当性を強調した。
真里谷武田氏の千葉介・上総介に対抗しようとする意識が両総地域に争乱を招くことになる。小弓公方足利義明を擁し安房里見氏とともに千葉宗家・庁南武田氏を攻撃し、ついに生実御所を築きあげるることができた。この争いが上総金田氏の終焉につながるのである。そのことは次の章で述べたい。


 
 
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